梅岩の人となり
梅岩は貞享2年(1685年)9月15日、現在の亀岡市東別院町東掛の農家に生まれました。その人となりを示す事柄は、『石田先生事跡』『石田先生語録』等に記されています。
10歳の頃、自家の山と他家の山との境で栗を拾い、分別なく拾って来たと父に叱られ、すぐに栗を返しに行ったというエピソードから、律儀で正直な父の影響を受け、愚直なまでの律儀さを身に付けたと言われています。
また14歳の頃から生来の理屈者で意地が悪いという性格を自覚し、以後、それを改めようとする強い意志を持ちつづけました。ここでいう、理屈者で意地が悪いとは、梅岩の道徳的意識の強さを反映したものです。
そのことは24~5歳頃から27~8歳にかけて曲ごと(不正)を嫌い気を煩ったとか、あまりにも気まじめであったため、奉公先の老母から「遊興」をすすめられたことからもうかがえます。
梅岩と町人層
梅岩は、江戸時代中頃の享保期を中心に活躍しました。この時代は、近世封建社会の大きな転換期にあたり、徳川吉宗の「享保の改革」にみられるように、幕藩体制の矛盾が表面化します。
その反面、商業の発達により町人が台頭してきます。梅岩の教えはその町人層にひろまり、大阪・兵庫・奈良方面への出張講釈を行うようになりました。
「人の人たる道」を求めながら、同時に商業活動における営利追求を積極的に肯定し、勤勉と倹約を説き正直に勧めたことから、町人の自覚を高めることとなり、この時代の風潮に適合していたといえます。梅岩の教えが、多くの商家の家訓に取り入れられ重んじられた点からもそれがうかがえます。
長年の研究成果の総決算として、元文年4年(1739年)55歳で『都鄙問答(とひもんどう)』、さらに、延享元年(1744年)59歳で『倹約斉家論』を刊行しました。そして、延享元年9月24日、60歳の生涯を閉じました。