石田梅岩関連文献
[大阪府高槻市唐崎にある石田梅岩 母たね生誕地]
写真提供:石田昌男さん
[同所に自生するイスの木]
写真提供:石田昌男さん
[掛行灯(かけあんどん)]
梅岩が開講した頃に、呼び込みのために軒先に掛けられた行灯で、「御望み之方は遠慮無く御通、御聞ならるべく候。女中方ハおくへ御通ならるべく候。」と記されています。
あらゆる人達の聴講を求めた梅岩の熱意が伝わる貴重な資料といえます。
(大阪明誠舎蔵)
[梅岩講釈之図(こうしゃくのず)]
梅岩の講釈の様子を伝える挿入図で、男女が熱心に聴講しています。
(京都明倫舎蔵『石田勘平一代記』挿入図)
[石田梅岩遺品]
梅岩が日常生活で使用した品々です。机・灯台・湯呑・香炉・線香箱・線香などです。
湯呑は塾内で使用したと伝えられ、線香は講義の時間を計る目安となりました。線香1本を香炉に立てて燃えつきるのが一回の講義の時間であったといいます。
(京都明倫舎蔵)
[石田梅岩の著書]
左『都鄙問答』(とひもんどう)(亀岡文化資料館)は、元文4(1739)年、梅岩55歳の時の著作です。
享保14(1729)年、京都での開講から10年間にわたる講義の内容をまとめたもので、心学の立場と根本理念を、問答形式で記しています。
右『倹約斉家論』(亀岡市立図書館蔵)は、延享元(1744)年、梅岩60歳で死去する直前の著作です。
心学の具体的実践のひとつである「倹約」をつうじて、家を斉える(ととのえる)(興隆・繁盛させる)道を平易な文章で記したものです。
こうした著書の刊行と講釈を通じて、梅岩は心学を庶民のための人生哲学として、具体的にわかりやすく説いていきました。
その信奉者は各階層にわたりましたが、当時は、江戸時代中期から後期にかけての社会・経済の転換期に当たり、特に商人層に積極的に受け入れられ、商人のこころの支えと繁盛への道標となりました。